白日夢

駅ビル地下一階に避難したものの停電状態に変わりはなく、非常灯だけがうら淋しく灯っているだけだった。



ホテルの説明によると、この非常灯も燃料が無くなり次第、消灯してしまうとのこと。地震前の地下の賑わいが残した余熱だけが恐ろしい現実に対する唯一の救いとなった。



多くの被災難民とともに過ごした夜は、ひっきりなしに襲ってくる余震との戦いであった。携帯の緊急地震速報が着信するたび浅い眠りから叩き起こされ、迫りくる恐怖に怯えたのである。



一体全体、どのような状況になっているのかは全く分からなかった。一切の情報は入って来ない。携帯で電話しても繋がらず、i-modeニュースやワンセグTVで情報を得ようとしてもバッテリー上がりが心配でおちおち使えない。このようなとき、緊急地震速報を受信できることが唯一の安全手段となるからだ。だから、バッテリー上がりは厳禁なのである。



恐怖の一夜を明かした後、朝7時ころホテルから説明があった。皆さまのフォローはここまでで、これ以上は食料も水もないので対応不可とのこと。JRや新幹線、高速バスと路線バスは止まっていて唯一タクシーだけが一部動いているとのこと。この場所は再び閉鎖されるので、このあと、市が用意する避難所への地図を渡すとのこと。



これを聞いて、都内や大阪などから来ている避難客は一刻も早く被災地を逃げ出し東京へ向かおうとタクシー乗り場へと走り出した。



私もタクシーで帰りたかったが容易には捕まるまいと思い、およそ20~30kmほどを歩く覚悟を決め、それなら気温が上がる9時ころまでできるだけここに居ようと思ったのである。



あらかた立ち去った地下街に残っているのは僅かの人たちだけ。なかに大声で話をする気丈そうに振る舞う叔母さんがいたが、何やら海岸寄りに住んでいて家が津波に流されて帰るところが無いと絶望の果てに逆高している様子であった。私のところも倒壊しているのか未だ建ち残っているのか一切分からない状況に変わりなく、不安を抱えた状態でその場を立ち去ったのである。



外に出てみると不気味なほどの青空が広がっていたが気温は2℃くらいだろうか、とにかく寒い。この中を長時間歩くことは相当困難である。バスは動かないとの説明があったが念のためにバスステーションに寄ってみると1台停まっているではないか。



行き先が違うので乗るわけにはいかなかったが、運転手の話では他方面行のバスも運行すると云う。天は我を見捨てずと思い、所定のバスが来るのを待ったのである。



バスに乗っている1時間余り、周囲の様子を伺がってみると意外と倒壊した建物が無いのにホッとしたが、なかにはガラスが粉々に割れている家もあった。そして、道路は所々で亀裂、陥没、段差ができていたのである。



漸くマンションに辿り着いてみると、それは倒壊せずそのまま建っていたので、その瞬間は涙が出るほど嬉しかったが、部屋の中に入ってみると、戸棚の扉が開け放たれ食器やガラス器が床に散乱しあらかた割れ飛び散っていたのである。天井からぶら下がる蛍光灯の傘も斜めに傾き揺れの激しさを物語っていた。



もちろん、大事な大事なロードバイクも 哀れ床に転倒し無残に寝転がっていたのだった。このような状態だから建物も無傷の訳もなく、注意深く観察してみると柱や梁や壁にはあちこちに亀裂が走っていたのである。


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全てを失ったと思った。間断なく続く強い余震の中、散らかった食器やガラス器を手で片づけ、壊れていないものは戸棚にしまい、ロードバイクを所定の位置に立てかけた。



停電が続いていて 水も出ない。もちろんガスも止まっている。一切の暖が取れない中、その日、何をどのように食ったのか思い出せないほど混乱していた。



夕方、鮮やか過ぎるほど不気味な夕陽が 鐘楼に かかった。天空は既に臨界を超え右世界に突入したが、それはまるでメルトダウンを予兆するような白日夢として襲って来たのである。

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